2010年1月26日火曜日

下名栗尾須沢

尾須沢鍾乳洞

これほど大規模の鍾乳洞があれば、岩をご神体とする神社や
修験の聖地やお寺ができていてもよさそうだが、今のところそ
の形跡はなさそう。『名栗の民俗』によると、コウモリ岩と呼ば
れる尾須沢鍾乳洞にニワトリを放すと、坂石町(吾野)の法光
寺の洞穴から出てきたという伝説が伝わっている。法光寺に
は弘法大師が彫ったといわれる磨崖仏もあり、頂上にはご神
体の石がまつられ、中腹には貞治3(1348)年に建立された観
音石窟もある。同様のものがこちらにもあってもよさそうだが、
聖観音だけがさびしく土に埋もれていたということになる。そし
てこのブログが参考にさせていただいている『名栗の石仏』編
者の塩野さんが昭和50年(1975)にこの聖観音を発見し、掘り
出したのだ。そのことがなかったら、いまこのように聖観音を
拝むことはできなかった。埋もれていることを推測し掘り出さ
れた塩野氏の推理力と執念に感謝かつ敬服。















鍾乳洞わきにたたずむ聖観音(寛文12 (1672))















聖観音アップ

土中から掘り出された観音は名栗最古にもかかわらず、とて
も新しくつい最近彫られたかのようにみずみずしい。願いごと
を聞きとどける「与願印」の右手が大きいのは、その大きな掌
でより多くの衆生を救うためだろう。






















聖観音全身像

下名栗落合 大ヨケの滝

大ヨケの滝

















不動明王(天保4(1833))

下名栗河又 龍泉寺

地蔵菩薩と巡拝塔(天明9(1787))

中央の地蔵菩薩はなで肩で、ユニークなすがたをしている
(享保8(1723))。
巡拝塔には、「秩父 坂東 西國 大峯山 湯殿山 四國八
十八ケ所 金比羅山」と全国の修験の聖地と札所名がきざ
まれている。
















六地蔵菩薩(安永8(1779))と地蔵菩薩(左端)

下名栗和田

地蔵菩薩(寛保3 (1743))
このブログが参考にさせていただいた『名栗の石仏』
の編集責任者・塩野氏宅てまえにまつられている。
母堂のはなしによると同氏はこどものころから石仏に
興味をもたれていたとのこと。そうでなくては埋没して
いた尾須沢の聖観音像を発掘することはできなかった
だろう。

2010年1月21日木曜日

下名栗馬場

巡拝塔(安政4(1857))・勢至菩薩(慶應2(1866))・馬頭観音(安政4)
阿弥陀三尊の脇士としてあらわされることの多い勢至菩薩が単独で祀られている。
この勢至菩薩が造立された慶應2年といえば、翌3年には大政奉還から王政復古へと激動の時代に突き進んでいく。戦争への予兆を感じ、迷いと戦さからすくってくれるこの菩薩を造立したのだろうか。














巡拝塔アップ
彫像は右手に錫杖はもっていないが、左手にもっているのは如意宝珠と思われるので地蔵菩薩だろう。
屋根には紋章が濃やかに彫られ、下の方には「湯殿山 羽黒山  百番組」、側面には 「四国八十八ケ所」などの文字がきざまれ、出羽三山と四国霊場の巡拝塔であることがわかる。
修験道と仏教との聖地巡拝の記念と、巡拝に行けなかったひとも塔をおがめば巡拝したのとおなじ利益を得られることをねがったものだろう。 

下名栗浅海道 熊野神社(洞雲寺裏山)

熊野神社参道
境内のうえの方(階段うえ右手にみえる。)には御嶽神社も設けられており、境内に数多い石塔は修験にまつわるものが多い。(このブログでは文字塔は省略)
ちなみに、ここの御嶽神社は中藤中郷四郎寺の御嶽神社2代目一心行者の弟子、加藤源之丞(石仏に銘がある)がはじめたといわれている。加藤源之丞さんの御嶽教へのあつい信仰とエネルギーを感じさせてくれる領域。














妙見菩薩(元治元年(1864))と大日如来(文久3(1863))















廿三夜塔(元治元年(1864))















廿三夜塔アップ
















不動明王(文久2(1862))
これだけが線刻。

下名栗浅海道 洞雲寺

地蔵菩薩
(左端:弘化2(1846)、中央:寛政4(1792)、右端は明治年間)
















中央の地蔵菩薩アップ













六地蔵菩薩

六地蔵は参道の両脇に3躰ずつにわかれている。
(上)左端は天保4年造立で、他の3躰がうえとおなじ弘化2年
の六地蔵。
(下)左の3躰が六地蔵(弘化2)、右の2躰は天保4(1833))の
造立。

下名栗浅海道

地蔵菩薩(嘉永7(1854))























法華経千部経塔(寛政6(1794))



















法華経千部経塔

下名栗浅海道 清水氏宅

不動明王(宝暦4(1754))
江戸時代の比較的早い時期の石仏はとくに足の部分がずんぐりと丸味のあるものが多いが、この不動明王も足元が丸味をおびている。(峰の庚申塔など)

下名栗芋浦美 岡部氏宅

地蔵菩薩(安政7(1860))
芋浦美は一口とも書く。むかし芋を一口で食べた老女が喉に
芋がつかえ、死んでしまったことから、「一口」と書いて「いもうら
み」と読んだという。

下名栗丹木

馬頭観音(寛政10(1798))
入間川が大きく迂回したところの岩鼻のうえに祀られている。

下名栗湯基

地蔵菩薩

3人の方にうかがってやっと出逢えた。かつては川に木橋がかかっていたが、朽ちてなくなってしまったという。道案内をしてくれた老女も以前お参りしていたが、お参りできなくなって久しいとのこと。
ホテルの別館ができ、川に通じる道もほとんど消えてしまっている。駐車場から川に下りていくと、岩陰にそれらしき石が見えた。苔と蔦におおわれほとんど自然石に還っている。資料によると天保12年のものと安永2年のものがあることになっているが、1躰しか見当たらない。 年号も苔で読みとれない。

下名栗湯基 三照稲荷神社

参道の文字塔
民家の庭先を通らせていただき、
おそわったとおり犬に吠えたてら
れながら畑のなかの道を行くと、
階段の上り口にある。「為男候行
者」と読めるがそのしたは苔にか
くれて読むことができない。文字の
書体は社にある「南無妙法連華
経」に似ている。


















南無妙法蓮華経塔
六面のそれぞれの面に「南無妙法
蓮華経」の文字がきざまれている。
お稲荷さんの境内に、どうして日蓮
宗の題目がほられた石塔があるの
だろうか。

2010年1月16日土曜日

下名栗倉久保 楞厳寺

六地蔵菩薩
山門をはさんで造立年不明の六地蔵が左右に祀られている。
そのあいだには大正時代などの地蔵菩薩が2躰あるが、写真
は省略。

















地蔵菩薩(宝暦10(1760)

下名栗市場

地蔵菩薩(文化13(1816))
左へ橋をわたれば楞厳寺につうじる道と
の分岐点に据えられている。























春のころの全景

下名栗皿方

地蔵菩薩
現在の道路のした、入間川よりにかつて
道がつうじており、そのかたわらに祀られ
ていた。地蔵のまえをくだって、川で野菜
や米をあらったものだと、作業ちゅうのお
年寄りに教えられた。地蔵に見守られな
がら、川とともに日々を送っていたさまが
浮かんでくるようだ。道路が新設され、一
段高い今のところにうつされた。

下名栗峰

庚申塔(正徳2(1712))
大正初期に町田氏が畑から掘り出した。道路新設にともなって、平成4年湧水の取水口のあるげんざいの場所に祀られるようになった。となりに馬頭観音がまつられているが、これも畑にあったのを移設した。ほとんどかたちが見えず、かすかに線刻のあとがあるのが分かる程度(写真省略)。

下名栗皿方 願王寺跡

年号地蔵菩薩と馬頭観音

願王寺に祀られていた仏たちはいまでは畑の一隅に、肩を寄
せ合いながらひっそりと立っている。
右端の地蔵菩薩は寛保元年(1741)、そのとなりの馬頭観音は
天保13年(1842)、ひとつおいて左端は天保9年(1838)の造立。


















地蔵菩薩(左から2番目のアップ)

2010年1月15日金曜日

下名栗田尻

地蔵菩薩と馬頭観音
左端の地蔵菩薩は文政8年(1825)、右端は延享4年(1747)、中央の馬頭観音は享和2年(1802)の造立。

下名栗田尻

観世音塔(文字塔)(安政8(1857))

下名栗桐木平

地蔵菩薩(弘化3(1846))と馬頭観音(文化6(1809))
台座には光明真言講中が造立したことがしるされている。























地蔵菩薩アップ

2010年1月14日木曜日

下名栗浅海道(下名栗337)

地蔵菩薩(宝暦3(1753))

上名栗伊倉(新井不動裏)(上名栗2430)

馬頭観音(文政7(1824))

上名栗山伏峠下

地蔵菩薩(2体とも天保10(1839))



馬頭観音からさらに少し下った、木立の切れ目に石垣が組ま
れ、そのうえに2久据えられている。
「じじいばばあ」の地蔵として親しまれている。そういえば右の
地蔵さんは女性のようにも見え、どろぼうに殺されたというお
じいさんとおばあさんがあの世の陽だまりで仲よく手を合わせ
ているかのよう。

上名栗山伏峠下

馬頭観音(明和7(1770))
峠から下る旧道は沢崩れで道がとぎれたところがあり、道をまちがえていないか不安だったが、なんとか辿りつく。























馬頭観音アップ
顔は円空の力強いタッチと九州臼杵の磨崖仏の気品を漂わせている。

撮影を終えての帰り道、とつぜん背後でカーンという乾いた音がひびいてきた。馬頭観音が久々に訪れた人間に話しかけたかったのだろうか? それとも、杉の枯れ枝が幹にあたった音だろうか?
渓流の夜の音を聞いて悟りを得たという、宋の詩人であり勝れた修行者でもあった蘇しょくの体験もこのようだったのだろう。「居士の悟道するか、山水の悟道するか。」
「尽界にあらゆる尽有は、つらなりながら時時なり。有時なるによりて吾有時なり。」という正法眼蔵の文章も思い起こされる。
得がたい体験をすることができ、感謝、感謝!

上名栗姥神

馬頭観音(文化元年(1804))
旧道に入ってすぐのところ、自然石をそのまま活かしたすばら
しい石仏。
全体が雄大かつ勇壮で、天衣をまとった馬頭もめずらしい。
馬頭観音はふつう馬の供養のために祀られることが多いが、
この像をみていると仏教のおしえに導かれたというよりも、
山への畏敬と情熱あふれる石工の巧みの結晶といえる。
文化元年の銘がなければ、縄文の雰囲気さえ醸し出している。
すくなくとも仏教的というよりはそれ以前の山岳信仰の匂い
が強烈だと、これは勝手な妄想なのだが・・・

上名栗湯ノ沢天王様登り口(上名栗1441)

地蔵菩薩

上名栗湯ノ沢(上名栗1618) 島田家の畑のなか

八幡様(明和3(1766))
地元では八幡様といわれているようだが、写真では見えないが、下部の彫刻は三猿とおもわれるれるので、庚申ではないだろうか。

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